八郎潟干拓工事
(1) ヤンセン教授の訪問とヤンセンレポート
食糧不足が大きな問題であった昭和27年、農林省は食糧の自給率を上げるため、食糧増産5カ年計画を策定しました。その計画では干拓事業が重要項目であり、「可知案」などの八郎潟干拓計画が検討されました。しかし当時、日本各地で行われていた干拓事業は規模が非常に小さく、技術不足と予算不足により工事が進みませんでした。特に難しかったのは、軟らかい地盤上に堤防を築くことでした。当時の吉田茂首相は干拓事業に強い意欲をもっており、この問題の打開策としてオランダからの援助を考えたのです。
昭和28年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣しました。交渉の結果、オランダとの間で、デルフト工科大学のヤンセン教授とアシスタント1人を日本に派遣することに合意したのです。 昭和29年4月、ヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れました。一行は八郎潟を視察した上で、地形や気象、様々な干拓計画など、膨大な資料を調査研究し、同年7月に「日本の干拓に関する所見」通称「ヤンセンレポート」を日本政府に提出したのです。
ヤンセン教授の計画は、日本人の干拓計画を改善したものであり、①東部承水路の幅を広げ、八郎潟南部に遊水池を設けること、②海よりも高く水位を保ち、潅漑用水としても使うこと、③日本海にショートカットした水道を掘削すること、④湖岸地先に小規模の干拓地を設けて農地を造成すること、でした。現在の八郎潟干拓事業の原型が、ここに初めて示されたのでした。
(2) 漁業補償問題の解決
八郎潟干拓の実現に向けて動き出す中で、八郎潟周辺の漁民たちは干拓反対運動を展開し、昭和28年には八郎潟干拓反対同盟会が結成されました。漁家約3000世帯、20000人の生活が、八郎潟の干拓によりおびやかされるというのが反対の理由でした。
その一方で八郎潟干拓の実現に向けての運動も活発でした。昭和28年に八郎潟利用開発期成同盟会が結成され、①八郎潟干拓の早期着工・早期完成、②干拓前の漁業補償問題の解決、などが要望されたのです。
昭和30年、小畑勇二郎が秋田県知事に当選しました。小畑知事は八郎潟干拓を県政の最重点政策とし、湖岸の漁業関係者への補償問題の解決を図りました。小畑知事は漁民に直接訴えようと、昭和31年2月に一日市(現八郎潟町)、鹿渡(現三種町)、船越(現男鹿市)で行われる漁民大会に、漁業組合員全員の参加を呼びかけました。厳寒の中、どの会場も大勢詰めかけ、知事の発言を一言も漏らさず聞こうと、緊迫した雰囲気だったといわれています。この大会で小畑知事は、漁業補償問題について干拓工事の着工前に解決することを説明しました。そして片手に「干拓着工万歳」、もう片手に「漁業補償の解決万歳」と自ら音頭をとり、参加者とともに両手で万歳三唱を行いました。すなわち条件付きで干拓賛成という形にしたのでした。
その後小畑知事は、干拓工事予算獲得の運動と平行して漁業補償の折衝を行いました。その結果、総額16億9千万円で妥結し、昭和32年12月に「八郎潟干拓事業に伴う漁業補償問題の実施に関する覚書」を結んだのでした。
漁業補償の内容は、漁民に対して、漁業権等に対する権利補償および漁業者の漁業所得に基づく生業補償が配分されるものでした。また佃煮加工業者や魚類等運搬業者など、八郎潟漁業に関連する業者に対しては県が見舞金を贈与しました。さらに生活再建を援助するために必要な施策を行うことと決定し、漁業補償問題は解決をみたのです。
(3)干拓工事の開始
昭和32年5月1日、八郎潟干拓事業所が秋田市に設置され、八郎潟干拓工事が着工となりました。昭和32年度の主な事業は、地質のボーリング調査、浚渫船等の建造、各種機械の購入など、次年度以降の工事の準備が主なものでした。 昭和33年度になると、干拓事業の企画立案や工事の設計・完成検査、予算編成・執行・決算等を行う組織として八郎潟干拓事務所が設けられ、3か所に干拓建設事業所が設けられました。こうして、膨大かつ多様な工事を短期間で実施する組織体制が整えられたのです。
八郎潟のボーリング調査の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
(4)八郎潟干拓事業起工式
本格的な八郎潟干拓工事は、昭和33 年4月に男鹿市の払戸と船越間の西部地先干拓地堤防工事から始まりました。続いて「ヘドロ」と呼ばれる柔らかい湖底土の上に堤防をつくるため、同年8月に八郎潟町一日市の沖合で試験堤防工事が着工しました。しかし干拓事業の起工式は、漁業補償問題のうち、漁網・漁具等の漁業関係財産の具体的な補償が未解決のままであったので、見送られていました。
実際には引き続き県と国との間で漁業関係財産の補償交渉も行われていました。長い交渉の末、補償額が妥結したことから、8月20日に起工式の挙行となったのです。
八郎潟干拓事業起工式は秋田市の山王体育館で行われました。式典には三浦一雄農林大臣、小畑勇二郎知事、二田是儀八郎潟利用開発期成同盟会長、オランダ大使代理、県選出国会議員、県議会議員、市町村長、漁業関係者など、約900人もの方々が参列し、盛大に挙行されました。午後からは参加者は船越(男鹿市)に向かい、進行中の堤防建設工事の様子や日本最大級の浚渫船「双竜」や「八竜」の試運転の様子などの視察を行ったのでした。
秋田市山王体育館で行われた
八郎潟干拓事業起工式。
(大潟村干拓博物館蔵)
起工式後、浚渫船の試運転の
視察が行われた。(大潟村干拓博物館蔵)
(5) 試験堤防
干拓地の生命線である堤防建設の成否が八郎潟干拓事業の成否につながります。土質調査の結果、堤防建設に必要な膨大な量の砂は、八郎潟の湖底の砂が使えることが判明しました。湖底の砂を堤防建設地に運んで盛りあげ、その外面をアスファルトで舗装し、浸食されないように湖側に捨て石を置くことと、築堤の基本方針が決まったのです。
問題は、柔らかい湖底の地盤にしっかりした堤防をどのように築くかでした。そこで、湖底の柔らかい地盤を良質の砂に置き換えて築堤する方法など、いくつかの工法が検討されました。しかし堤防の強度や工期、建設費用などそれぞれ一長一短があることから、最も地盤が軟らかい地点(馬場目川河口の西約3km、水深4m)に実際に2種類の工法により500mの堤防をつくり、データを得ながら工事をすすめることになりました。この堤防を「試験堤防」といい、昭和33~34年に工事が行われました。
試験堤防において特筆すべきことは、堤防を壊してデータを収集する「破壊試験」を昭和34年4月に行ったことです。この試験により様々なデータが集められ、以後の堤防の設計・施工では科学的な裏付けのもと、工事が進んでいったのです。
試験堤防の建設工事の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
(6) 干拓堤防工事
堤防工事は昭和33年度から38年度まで行われました。特に八郎潟の南東部の湖底には、「ヘドロ」と呼ばれる軟弱地盤が広く分布していました。この軟弱地盤層の上に堤防を築くため、独自の工法が考え出されました。それはヘドロの表層を掘削して良質の砂で置き換え、その上に築堤する工法でした。この工法により築堤された中央干拓地の堤防は、総延長51.5kmのうち13.5kmになります。また、湖底にヘドロ層が分布していない地点では、湖底に直接砂を盛って築堤工事が行われました。
堤防の材料の砂は全て八郎潟の湖底の砂であり、男鹿市払戸の沖合や湖の北部・西部の湖底から運ばれました。八郎潟干拓事業の堤防工事で使われた砂の総量は、なんと2500万立方メートル以上にもなり、これは東京ドーム20個分以上の容積に相当しています。
堤防建設用の砂は浚渫船「双竜」(写真中央)により、両側の土運船に積み込まれ、築堤工事現場まで運ばれる。(大潟村干拓博物館蔵)
(7) 活躍した浚渫船(しゅんせつせん)
八郎潟干拓地の築堤工事にはたくさんの船が活躍しました。その中心は浚渫船であり、主に二種類が使われました。一つは築堤用の砂を湖底から採取するサクション式浚渫船であり、もう一つは堤防建設地の湖底土を掘削しポンプで吸い上げるカッター式浚渫船でした。
昭和33年9月には日本初のサクション式浚渫船「双竜」が落成し、改修されながら工事に活躍しました。カッター式浚渫船は当時日本でも多く使われており、「八竜」などの浚渫船が活躍しました。これらの浚渫船が活躍する様子はあたかも海軍の部隊のようであり、「八郎潟艦隊」と呼ばれました。
写真右、船越基地に停泊中のサクション式浚渫船「双竜」。(大潟村干拓博物館蔵)
(8) 土運船と曳船
八郎潟干拓工事では、築堤用の良砂を湖底から採取していました。この砂の運搬に活躍したのが土運船と曳船です。土運船は動力をもたず、浚渫船により採取された砂が積み込まれ、動力をもつ曳船により築堤地まで曳航されます。築堤地では船底の扉が解放され、湖底に砂が落とされるしくみになっています。これらの船は常にペアで使用されました。
築堤地に向かう曳船(手前)と土運船(奥)
(大潟村干拓博物館蔵)
築堤地では土運船の船底が解放され、砂が落とされる。(大潟村干拓博物館蔵)
(9) 堤防の保護
堤防建設地に砂を盛っただけでは、波に浸食されてしまいます。堤防の保護のため、堤防の外側に大きな石を大量に置く工事が行われました。この工事を捨石工事といい、昭和34年から39年まで行われました。
問題は、必要な石をどこから確保するかでした。中央干拓地と地先干拓地の堤防の総延長は約100kmもあることから、必要な石の量もきわめて膨大です。そこで農林省は、三倉鼻(八郎潟町)の東側に位置する筑紫岳(八郎潟町、現三種町)を購入し、採石をすることにしたのです。三倉鼻のすぐ東には砕石のストック場と砕石運搬用岸壁が設けられました。工事期間中、毎日たくさんの石が築堤現場へと運ばれていきました。昭和34~38年度の5年間で、採石のために爆破等の作業を行った体積は80万立方メートルにもなりました。その結果、筑紫岳の北側の大半は失われ、大きく姿を変えました。また筑紫岳から運び出され、捨石工事に使われた石の量は、なんと124万トンにものぼったのです。
採石が行われた筑紫岳。
(大潟村干拓博物館蔵)
採石を石運船で築堤場所へ運ぶ。
(大潟村干拓博物館蔵)
(10) 排水
干拓地は調整池や承水路の水位より低いため、陸地化するのに堤防内の水を取り除く必要があります。そして陸地化してからは、干拓地内に入ってくる水を常に取り除く機能が求められます。干拓地の造成と管理において排水を担う施設が排水機場と呼ばれるポンプ場です。
中央干拓地の面積は15,666haにも及びます。中央干拓地内を貫くように幅の広い幹線排水路を掘削し、支線排水路を幹線排水路に連絡して導水させることで、干拓地内の水を全て幹線排水路に導き、末端に設けた排水機場から排水する計画が立てられたのです。
排水機場は、安定した地盤をもつ男鹿市払戸と三種町鹿渡に建設されました。排水能力は1秒間に40m3とし、これらの排水機場に接続する幹線排水路が掘削されました。
払戸の南部排水機場は昭和33年度から、鹿渡の北部排水機場は昭和35年度から建設工事が行われ、どちらも昭和38年度に完成しました。南部・北部排水機場は、その後順調に稼働していましたが、昭和58年に発生した日本海中部地震により被害を受け、機能が低下しました。そこで平成8年度から19年度まで行われた国営男鹿東部農地防災事業により、両排水機場とも全面改修されました。
建設中の南部排水機場(大潟村干拓博物館蔵)
(11) 防潮水門
干拓地ではやがて農業を行うことになるので、農業用水が必要となります。しかし当時の八郎潟は、船越水道を通して海水が流入しており、農業用水として使えませんでした。そこで、船越水道に防潮水門をつくり、日本海と遮断して調整池を淡水化し、農業用水を確保するとともに、調整池の水位を一定に保つようにしたのです。防潮水門は、船越水道の始点の位置に設けることとされ、昭和34年から昭和36年まで工事が行われました。
完成した防潮水門の延長は390mでした。中央に可動堰が219m、その両側に固定堰が171m設けられ、計画洪水量1,435m3/秒でした。可動堰の水門は10門であり、うち1門は水門が高く吊り上げられ、干拓工事に必要な船舶の通行できるように配慮されていました。漁船が航行できるよう航幅4mの閘門と、幅0.65mの魚道も設けられました。
この防潮水門ですが、昭和58年の日本海中部地震と経年使用の老朽化により機能が低下し、国営男鹿東部農地防災事業により、平成12年度から19年度にかけて全面改修されました。完成した2代目防潮水門は、延長が370m(うち可動部350m)、計画洪水量1,630m3/秒、14門の水門、漁船用閘門1箇所、魚道2箇所が設けられ、水位調節の機能が強化されています。
防潮水門工事の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
(12) 船越水道の掘削
かつての船越水道は、総延長がおよそ4000m、幅が400~600mであり、八郎潟から日本海に達するまでS字状に大きく蛇行していました。干拓後の八郎潟調整池(残存湖)の水位は+1.86mと計画されており、八郎潟調整池と日本海との水位差は最大でわずか1.26mでした。大量の水を安全に調整池から日本海へ排水するためには、水路の延長が短いほど効率的ですので、蛇行している船越水道を一直線に日本海へ導くための工事が昭和37年10月から昭和39年3月まで行われました。新船越水道は、幅390m、深さ3m、延長1900mとなり、1秒間に流れる水量は旧水道と比べ10倍になりました。
掘削がすすむ新船越水道。(大潟村干拓博物館蔵)
(13) 干陸
干陸とは、堤防で囲まれた干拓地の水をくみ出し、陸地化することです。干拓地からスムーズに排水するには、排水機場につながる幹線排水路を整備しておく必要があります。また、干陸後に農地の乾燥を促し、将来の営農時に水田からの水をスムーズに排水するためには、幹線排水路に連絡する枝分かれした支線排水路の整備も必要です。
幹線排水路の掘削工事は、堤防が完成する前に、堤防工事で使用している浚渫船を配置して行われました。一連の工事は昭和36年度から38年度にかけて行われ、掘削された土砂は排水路の周辺に撒き散らされました。その土砂の量は540万立方メートル、東京ドームの4倍以上にものぼります。
昭和38年11月12日、正面堤防の締め切りが完了し、1周51.5kmの中央干拓地の堤防が完全につながりました。そして干陸に向け排水機場のポンプが稼働。ついに排水が始まったのです。
中央干拓地の排水量は、全体で約7億トンと推定されました。2か所の排水機場のポンプをフル稼働すれば、約半年で干陸ができます。しかし、完全に干陸するまでには2年半の歳月を要しました。時間をかけて水位を下げ、徐々に堤防に圧力をかけて安定化させること、そして支線排水路の掘削を小型の浚渫船で実施できるよう、一定期間水位を確保することがその理由でした。
干陸前の干拓地と完成した南部排水機場。徐々に排水が行われ、
干拓地の水位が下げられていった。(大潟村干拓博物館蔵)
(14) 干陸式
排水機場が稼働後、干拓地内の水位は徐々に低下し、昭和39年9月には比較的水深が浅い八郎潟の西部を中心に、約6,000haの湖底が姿を現しました。この面積は中央干拓地のおよそ35%にすぎませんでしたが、水量としてはすでに約90%が排水されていました。
昭和39年9月15日、中央干拓地が初めて一般に公開されました。そして後に大潟村の総合中心地となる地点で、赤城宗徳農林大臣、オランダからヤンセン教授、小畑勇二郎秋田県知事をはじめ、約1,300 人もの関係者の出席のもと、干陸式が盛大に挙行されました。式典ではこれまでの功績をたたえ、ヤンセン教授に勲三等瑞宝章が贈られました。ヤンセン教授は式典後の記者会見でにこやかに「八郎潟干拓事業は日本人の技術の勝利だ」と話してくださいました。
式典会場の周辺では中央干拓地の堤防を一周する駅伝競走大会、承水路でのボート競技、高校選抜相撲選手権大会などの協賛行事が行われました。この日、会場には約1万人以上が訪れたと推定されています。
その一方で、湖底に誕生した大地の表面には、たくさんのシジミの貝殻がありました。訪れた多くの人たちはその姿を複雑な思いで見つめながらも、新たな大地の誕生を祝ったのでした。
ヤンセン教授には赤城農林大臣から
勲三等瑞宝章が贈られた。
(大潟村干拓博物館蔵)
干陸式会場。
式典は奥のテント内で行われた。
(大潟村干拓博物館蔵)
(15) 排水路網の整備
干拓地内の水をスムーズに排水するため、干陸と並行して排水路網の整備工事が行われました。すでに幹線排水路の荒掘りは終了していたので、幹線排水路に連絡する支線排水路と、支線排水路に連絡する小排水路について、干陸しながら掘削がすすめられました。
しかし、支線・小排水路の総延長は600km以上もあり、広大に広がるヘドロ地盤上の工事ということで、工事の条件や規模に前例がありませんでした。そこで排水路の掘削工事のため、専用の作業機械「特殊小型浚渫船」「マーシクラムシェル」などが開発・配置されました。これらの機械の活躍により、中央干拓地に排水路網が整えられたのです。
排水路掘削に活躍した特殊小型浚渫船。
(大潟村干拓博物館蔵)
小排水路の掘削に活躍するマーシクラムシェル。(大潟村干拓博物館蔵)